Z、日本重症心身障害学会巻頭言

 この原稿の依頼を受けて、最初お受けするかどうか迷ったのである。というのは、私は現在、重症心身障害児施設の現場から遠ざかり、教育の場にいるからである。しかし、長くこの分野に籍を置き、多くの施設関係者や行政や親御さんとの接点を持ち、しかもその間のいろいろの裏事情にも若干関与していたものとして、特に若い方々にこのあたりのことを承知して、今後の療育活動を行なって欲しいとの願望があった。
 まず、この学会であるが、すでに30回近くも経過しているが、その間、かなりの困難な時期もあった。特に、小林提樹先生が会長を辞任され、大谷先生にバトンタッチされ、事務局が守る会から足利病院に移った時期である。当時会員数は約200名であり、財政的にも難しい時期であった。現在の会員数と予算規模を見ると隔世の感があり、良くここまできたなという思いを強くするのである。細々と運営を続け、大谷先生のご指導もあり、今日に至った訳である。
 ところで、6年前に現在の職場に奉職して以来、私が人生最後のライフワークとして取り組んでいる課題が二つある。一つは重い障害を有する障害児に対しての「摂食訓練」であり、もう一つは、「死を通して生を考える教育」である。
 初めに、摂食訓練に関してであるが、これは私が足利病院に在籍中から行っていたものではあるが、結構興味深いテーマである。念のため言っておくが、これはいわゆる心身症における神経性食欲不振症ではなく、脳性まひなどにおける摂食訓練である。横山等によれば、同じ重症児でも、摂食障害の有無により、その死亡率に明らかな差が見られると報告している。従って、重症児に対しての摂食訓練は、その生命予後を左右する極めて大きな要因であると言って間違いなかろう。私の経験で言えば、少なくとも、ある程度の摂食訓練を行なえば、最低限度の摂食機能(少なくとも誤えんがあまりない程度の摂食)を獲得するのはそれほど困難ではないと思っている(時間はかかるが)。また、経管栄養を行っている患者さんに、数年間にわたる訓練を行い、努力の賜物としての経管抜去が出来た時は、医師として仕事をしてきた喜びを母親と共に大いに満喫した気持ちになる。
 次に、「死を通して生を考える教育」 に関してである。
このテーマは多少ご説明をしないとご存知ない方もおられると思われるので、まず、簡単に解説をしておく。本邦では、上智大学のデーケン教授が提唱されて以来、近年の子ども達の非道にして残虐な事件の多発に心を痛めた人達がこの教育を実践し始めている。私も現在の大学に奉職して以来、この講義を始めている。既に、1000人以上の学生にこの講義を実践し、多くの学生からかなりの評価を頂いている。私自身の切り口は、デーケン教授とは多少異なり、末期の患者や、その家族の悲嘆教育などは、ほとんど眼中になく、多くの若者達の前に死を提示する事により、それぞれが自分で自分の生きがいを考える一つの切っ掛けとして欲しいとの願望から出ている。現在のところ、まだまだ、それぞれ手探りでの苦闘が続いているとはいえ、各領域の方々がそれぞれ自分の思う切り口で授業を行っているのが現状であろう。
 私自身の場合は、ビデオを見せてから、これ迄の重症児における体験を交えて、脳死、臓器移植、脳死者と植物人間の違いを説明するなどの解説を行い、その後に、なぜ、今このような講義が必要であるかについて述べる。さらに、今後の対策についても述べる。
 今年中に、これに関連して、「筋ジストロフィー症」の患者に死生感を語って頂き、ビデオに収録して、この授業を行う学校の先生方に対しての教材として活用してもらいたいと考え、目下進行中である。おそらくこのような疾患の患者さん自身が語る「死生感」はインパクトを持って子ども達に受け止めていただけると確信している。勿論、多くの生徒さんの中には、最近肉親を失われるなど、この問題に触れて欲しくない子どももいるであろう。事実、小学生における死の認識に関しての我々のアンケート調査においても、これを書く事に抵抗があり、ピンクのマジックでアンケートに答えた子どももいる。この子どもは、最近、待ちに待ってようやく出来た下の子どもを、新生児突然死症候群で失い、そのような態度でその気持ちを表現したものと考えられる。この件では、その後、母親と担任教師が十分に話し合いを持ち、子どもに接した事により、かえって、この事件を契機として、死を通して生を考える教育が行われたのでないかと思っている。
 私自身の年少児に対しての僅かな経験から言っても、小さい子ども達がこの問題を避けているのではなく、むしろ大人(家族、教師等)がタブーとして避けていると強く思うのである。
 本研究会の会員諸氏には、なぜこのようなテーマが本研究誌の巻頭言として書かれるかに関して疑問を呈する方もおられるかもしれない。しかし、筆者の問題意識は、筆者のように障害児にかかわってこられた会員諸氏には、是非、このような意識を持っていただきたいと思うからである。これからの時代を担う多くの若者達が、死を通して自分の生きがいを見出し、社会に対して貢献してもらう為には、この様な教育が不可欠な時代に入ったと考えるからである。筆者自身も最初、この様な事を学校で行う事には抵抗があった。なぜなら言うまでもなく、この様な事は本来、家庭の中で自然のうちに行われるのがより良い事は言うまでもなかろう。しかし、残念ながら現在の家庭においては、家庭機能が衰退し、自然のうちにこのような教育が行われる事がかなり難しくなりつつあると思うのは筆者のみであろうか。今後、学校教育の中で(学校教育のみが対象ではないと思うが、まずは学校で)このような「死を通して命を大切にする教育」が不可欠となるであろうし、その一端を障害児医療にかかわり、重い障害児の療育を通して多くの死の場面に出会う学会諸氏が是非担って欲しいと願うからである。なぜなら、重症心身障害児医療にかかわっている方々は最も死に近い存在であり、この経験を子ども達に話してもらう事が極めて重要であると考えるからである。
ここまで書いてきて、ふと考えたことがある。それは、かって小林提樹先生が書かれた「第五の医学」という概念である。先生は、予防、保健、臨床、リハビリテーションという四つの医学のほかに第五の医学の分野があるとの考えを披瀝された。重症心身障害児の死においては突然死に近く、原因はほとんど不明のままの死が時として少なからずみられることは、この仕事に従事している方々はご経験されていると思う。この事を小林先生は第五の医学として述べられたと思う。この原因が今後の医学の進歩に伴って解明されるかどうかは分からないが、小林先生が言っておられるように、少なくとも自然死に近い、一種の寿命とでも言うべきものがあるとしても不思議ではないのではないかと思う次第である。言い方を変えれば、重症心身障害児医療の場を小学生や中学生に見てもらう機会を多く作ることにより、子ども達に自分達の生き甲斐を見出してもらう事になるのではないかと考えている。これこそが、我々が現在提唱している「死を通して生を考える教育」そのものではないかと思う次第である。従って、重症心身障害児医療に従事する諸先生方には、ぜひそのような視点も持って欲しいとの願望から巻頭言を書かせていただいた次第である。
PO ご意見があれば、ぜひ、私までご連絡いただければ幸いである。
詳細は日本女子大学家政学部児童学科の私のホームページを参照されたい。

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