]\、「死を通して生を学ぶ教育を」 
読売新聞 朝刊4月11日 論点 掲載



論点

死を通して生を考える教育を

日本女子大学教授中村博志

 若者や子供たちによる衝撃的な事件が起きるたびに、「いのちの大切さ」を忘れた社会の病弊が指摘される。
 では、子供たちは実際、いのちについて、どのように認識しているのだろうか。私が主宰する「死を通して生を考える教育研究会」で昨年、首都圏の小学校二校の協力を得て、昨年三年生から六年生までの三百七十二人に対して、「人は死んでも生き返ると思いますか」と尋ねた。
 答えは「生き返る」が34%、「生き返らない」が34%、「わからない」が32%だった。小学校高学年でも死を正しく認識していないものが多いのだ。
 調査した人数が少ないので、性急な結論は出せないが、少なくとも、子供たちに「いのちを大切に」と標語のように語りかけるだけでは足りないと言えるだろう。まず「死とは」「いのちとは」というところから伝えなければ、言葉は届かない。
 振り返れば、かつては隣近所の人が亡くなったりすれば、わがこととして心を痛める日常風景があったが、近年では病院で亡くなる場合が圧倒的に多くなり、日ごろの生活のなかで死に出合う場面も減った。
 これは小動物についてもあてはまる。マンションでは小動物さえ飼えない。飼っているカブトムシが死んだ時に、「明日デパートで買ってきてあげる」と言う母親すらいると聞く。
 こうした環境のなかで、若者や子供に「自分はかけがえのない存在」という自尊感情を持たせ、他人への思いやりをはぐくむにはどうしたらいいか。
 私は大学の講義で、「死を通して生を考える教育」という授業を行っている。死と向き合ってこそ、生き方を深く考えられるのではないかという発想である。その際、一つの提案として、生物学的視点を取り入れた。
 最近の遺伝子解析により「アポトージス」という細胞の壊れ方がわかってきた。例えばオタマジャクシがカエルに成長していくとき、しっぽはだんだん消えて行くが、その際にこの機能が働くのである。
 オタマジャクシのしっぽの細胞のDNAには最初から死へのプログラムが書かれているのだ。われわれ生物のDNAにはこうした機構が組み込まれていて、いのちを有限な存在にしている。例外のない厳粛な事実を知るとき、よりよく生きるにはという問題意識がわく。
 もちろん、これらは講義の前段を構成するだけで、そこからタ―ミナルケアとか脳死、臓器移植などに発展していく。
 この授業は一九九六年から始めたが、実はこんなことがあったからだ。私はかって20年ほど、小児神経科医として重症心身障害児医療に携わったが、その体験を講義で話すうち、「心が揺り動かされ、自分の内奥を見つめ直した」と語る学生がいた。「人生を考えさせられる話を初めて聞いた」とも。
 残念ながら、日本では死はまだタブーであり、子供が親や教師に問い掛けたとしても、正面から相手になってくれることはまれであると思う。                                                            
 もちろん、死の受け止め方は年齢によってかなりの差があり、対応は年齢ごとに異なるのは言うまでもない。さらに、家庭事情も違う。したがって、教育といっても慎重な配慮が必要だ。
 しかし、少なくとも、私がかかわった大学生や少数の小中学生の反応では、これらの講義を通じて、自分の生きがいや、他人に対しての思いやりに気持ちが向くのは強く感じ取れた。
 先ごろの中央教育審議会による教養教育の在り方についての答申で、具体策の一つとして、高校生では「死や挫折を学ぶ機会」が例示された。
 この時期をとらえて、「死を通して生を考える教育」を提唱したい。もちろん、子供に死を語るとき、大人が一緒に考える姿勢が求められるのは言うまでもない。

日本大学医学部卒。平成7年から現職。
専門は小児神経学、著書に「女子大生のための小児保健学」など。65歳。

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