U、「死を通して生を考える教育」研究会の発足 |
そして考えれば考えるほど、今後の子どもたちの課題として、非常に大きな、しかも真剣に取り組まねばならないテーマであるという確信を抱くようになり、何人かの友人と相談をした結果、1998年の10月から「死を通して生を考える研究会」を発足させる事ができたのである。最初からの目論見として、教育関係者として学校の先生方には小・中・高の各先生方に数人づつ参加していただく積もりでいたが、この他にも、心理学者、宗教家(仏教、キリスト教等)、ケースワーカー、ホスピス婦長、獣医など、各層から幅広い参加者を募り、興味を持つ学生とともに、タブーなく議論を進めていきたいとの考えはあった。現在、これらのほとんどの希望は満たされて会の運営は進められている。これは私個人の意見であって、会全体の集約された意見ではないが、最初からの問題意識として、日本人には宗教的基盤が少なく、キリスト教や仏教などの影響下にある諸外国におけるこの問題の取り上げ方とは根本的に異なる立場で考えていく必要があるとの認識があった。勿論、生や死を考えていく上には、宗教を排除して考える事は恐らく不可能であろう。しかし、このような背景から、私自身としては一つの方向性として、生物学的視点を基盤として考える事が最も適切ではないかと考えるようになった。 もとより、死の認識の発達には、年齢により大きな違いがある事が知られている1)。従って、今後この研究を進めていくには、年齢的、発達的視点での検討が欠くべからざるものである事は言うまでもない。しかし、これまで大学生に対して行ってきた私の講義の結果から言えば、少なくとも大学生に対しては現在の私の方法で十分やっていけるのではないかとの感触が得られている。もちろん今後、各年齢別(特に幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大人)にそれぞれの教材の作成が必要である事はいうまでもないし、また現在そのような取り組みも行っているのである。これまでの我々の研究会での議論では、年齢区分としては、高校生以上の年齢、小学校上学年から中学校生の年齢、小学校低学年生の年齢、幼稚園生の年齢の四段階でのそれぞれのマニュアルが最低必要であると考えている。 一人の小児科医としては、生や死を語る場合には、やはり基本的な医学的事項を是非最低の知識として知っておいて欲しいとの願望があった。例えば、脳死や臓器移植、さらにはターミナルケアや植物人間の話などである。さらには、最近の子ども達が引き起こす残虐極まりない事件の背景には、家庭や家族の絆の崩壊という社会現象が極めて大きな背景としてあることも忘れてはならないであろう。この問題に関しては、後日また述べる機会があるとは思うが、ここでは問題意識としてのみ挙げておくに留めたい。また、これらの事件を引き起こす子どもたちの心理的背景には、いわゆるテレビゲームなどの氾濫からくるバーチャル・リアリティー(仮想現実)の問題も大きな因子であろう事なども話すのである。事実、金子(1995)2)によれば、東京都内の小学校の6年生298人を対象とした調査で、「いのち」や「死」といったことについて、一度死んでも生き返るのではないかと思っている子どもが49.7%いると報告している。 この事実は、我々の調査3)において、一度死んだ人が生きかえることがあると思うかとの問いに対して、あるとの答えが126例(33.9%)、ないが126例(33.9%)、分からないが117例(31.5%)の結果と若干の頻度の違いはあるが、少なくともこれまでの研究とはかなりに違いを見せており、極めて深刻な問題として考えておく必要がある。 |
死を通して生を考える教育関係トップに戻る |