資料A 死んでも生き返ると信じていたある女子大生の感想文 |
事例1 某大学・某学科2年 19歳 FOさん 『死を通して生を考える』 まず中村先生の講義を聞いての感想を述べたいと思います。前回の先生の講義は大変興味深く、いつもは話を聞いてるだけだと眠くなってしまうどうしようもない私ですが全く眠気なんて起きず、先生の講義を聞くことができました。 実は私も先生の講義を聞くまでは『死』をよく理解していない現代の子供達と同じでした。『一度死んだ動物が生き返ることがあると思いますか?』の問い。私の答えは『そういう場合もある。』でした。先生が『一度死んだものは絶対に生き返らない』とおっしゃったのを聞いて大変驚いたのと同時にきちんと納得しました。以前、『3度生き返った女性』というニュースを見ました。ある女性が医師に死亡診断を受けた後、数時間して生き返ったという話でした。私はそのニュースを見てから動物は生き返ることもあると思うようになり先生の講義を聞くまでは何の疑いもなくそれを信じていました。しかし先生の講義を聞いてその女性は『生き返った』のではなく『死亡していなかったのだ』と認識しました。先生のお蔭で『死』に関して知識が増えたことに感謝しています。私はこれまで『死』というものを身近に感じたことがほとんどありません。親戚で亡くなった者がなく、私がお葬式に初めて行ったのは高1の冬でした。母の知り合いの方のご主人がお亡くなりになった時に私も良くしてもらっていた方だったので初めは『お葬式には行きたくない』と言っていた私でしたが母の『お葬式に行かないともうおじさんに会えないのよ。最後にお別れしといた方がいいんじゃないの?』という言葉に後押しされ、お葬式に行きました。 初めて行ったお葬式は私が想像していた重々しい雰囲気とは違うものでした。『お葬式ってこんな感じなんだぁ』と最初は感じていましたがすぐにそんな私の軽い気持ちはなくなりました。最後のお別れの瞬間。お棺にお花を1輪ずつ入れる時。ご遺族の方々の嗚咽を上げて号泣する姿を見て驚きました。生と死の分かれ目とはこんなにもすごいものなかのかと思いました。 生きている人は別れを悲しみ,泣くことができる。死んでいる人は感情がなく、ただの『もの』でしかないように感じました。 そして『死』から遠ざかっていようとしていた自分に気付きました。私はお棺にお花を入れようとした時、お亡くなりになった方の顔を見ないようにしていました。結果的に見えてしまったのですが,大変ショックを受けました。よく『人の死んだ姿は眠っているよう』などと表現されますが、全く違っていました。死後3,4日経っていたということも関係していると思いますがその姿はまるで蝋人形のようでした。目は開いたままでその目にもちろん光りはなく白く濁っていて肌も完全に生きてる人間とは違うものでした。こんなことを言っては失礼だとは分かっていますがその姿は『人間』ではなく『もの』としか言いようのないものでした。私の知っているおじさんはいませんでした。この初めて私が『死』に少しだけ近づいた時から『死』について考えるようになりました。いつまでたってもどれだけ考えても分からないのが『死んだらどうなるのか?』ということです。これは死んだ人じゃないと絶対に分からないことです。でも私の今のところの考えは人は死んだら魂は残ると言う人もいるけど『魂も何も残らない』というものです。夢も見ていない眠っている時のような状態なのではないかと考えています。 この実際にお葬式に行って『死』を身近に感じたことは私の貴重な体験になったと思っています。また、T.Tさんのお手紙を読んで感じたことはいかにDeath Educationが大切かということです。遅くなってもいいから絶対にするべきだと思います。 きっと殺人や自殺をする人はDeath Educationを受けなかったのだと思います。私もこれまでDeath Educationは受けていません。これから先生の講義を通してしっかりと学んでいきたいと思っています。そして私が今まできちんと理解していなかった『脳死』と『植物人間』の違いをはっきりと理解することができてよかったと思いました。ダラダラと長くてまとまりの文章になってしまって申し訳ありません。私がこの講義を受けてどれだけ『死』に対する思いが変わったかということをお伝えしたかったのです。少しでも先生に伝わればうれしいです。貴重な講義を受けることができて本当に感謝しています。どうもありがとうございました。 事例 2 某大学・某学科 1年 YKさん 私は1年ほど前まで「人は死んでも生き返る場合もある」と思っていました。小2の時に祖父が死んだにもかかわらず、そう思っていたのです。祖父は早朝死んだのですが、お通夜はその日の夜ではありませんでした。母に、「一度死んだと思われていた人が、7、8時間くらいしてふと生き返ることがあるからだ」と言われました。実際、そういった話をTVのびっくりニュースのような番組で見かけます。それは、そういった話がいかに稀であるかと共に、確かに起こり得る事実だと言う証明のように思われるのです。 私の親は私と弟に命の大切さを教えてくれることが多かったと思います。弟は生まれてからしばらく、産声を上げませんでした。酸素を取り入れさせるため、皆でたたいたり、水をかけたりしたそうです。決して大きいとは言えない病院だったので、救急車で救急病院に運ばれ、体内の血を取り替えました。我家で唯一AB型だったため、父の会社の千葉支店の人、近所の人などなどから血を集めたのです。母は命の話をする時にはいつも、弟の命を助けてくれた人々の話をしました。「この命は、一人だけの命ではないのだ」と。こういった話で、人の生への執念を感じていた私は、「人は生き返りもする」と信じたのでした。 でも、その確信を崩したのも弟でした。1年ちょっと前、頭から熱した油をかぶったのです。その連絡を聞いた時、もう弟には会えないのかと思い、「人は生き返らない」のだと感じました。結局、命は守られ、彼は3週間あまりの春休みを病院のICUベットの上で過ごしました。顔面にガーゼをはった帽子をかぶって通院・通学し、夏休みは皮膚移植のために、やはり病院で過ごしました。今では、腕の火傷痕はすっかり消え、瞼やおでこに赤みやつっぱりが残るのみとなりました。生命の神秘を実感した彼は、医者になりたいらしいです。昨日の夜、その弟に授業の話の一部を話したところ「人はいつか死ぬからおもしろい」と言いました。たしかに、限られた命だからこそ、大切なのだと思います。 今はもう、人は死んだら生き返らないとわかっているし、天国や地獄もないとわかっています。でも生き返ると信じることは別に悪いことではないと思います。ミッキーは永遠に死なないけれど、たとえ死んでも、だれもそんなことはないと信じないことでしょう。夢を守るために、ミッキーは永遠に死なない。それと同じように、だれかが死んでも、死んでいないような気がすることがあるのです。その人が好きだったものを食べるとその人を思い出したり似ている後ろ姿を見つけると、思わず顔を見たくなります。死んだ人を思い出すことはよくあります。先生は「黄泉がえり」という映画を見ましたか? 100%フィクションなのですが、死んだ人への強い思いが切ないです。 |
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