T、公務員生活13年の思い出雑感

 今年3月で国立療養所足利病院を退職した。国立療養所足利病院には13年余お世話になった。この間多くの厚生省の技官や事務官、国立療養所の病院長さん、その他の多くの方にお世話になった。この場を借りて、これらの方々に深甚なる感謝の気持ちを表したい。筆者は院長在任中いろいろの提言をしたが、ここになってこれらの提言が少しづつ実りあるものになりつつあることを高く評価している。しかし、残念ながらこれらの改革が少し遅きに失した感じで捉えている。もう少し早ければという思いがするのは筆者のみではあるまい。
 主として、筆者の専門性もあり、国立療養所重症児病棟関係の仕事をさせて貰った。幸いにして、いろいろと話は聞いて貰えたが、残念ながら時期が悪いせいもあったのだろう、政策として実現したものはあまりなく、ストレスが貯まったことはある。
 そこで、これらの仕事を通じて、筆者が感じていることに関して述べることにする。
 最近、筆者は「平等」、「公平」という言葉にこだわっている。20年以上、医療といっても福祉に近いところで仕事をしてきた筆者にとって「平等」、「公平」という言葉がどうもやや的をはずれて用いられているのではないかという思いがあった。日本人にとっての平等とはなにか、また、日本人おいての平等の意味はということをかなり以前から考えていた。公平という言葉もしかりである。
 筆者は平等という言葉が日本人においては結果を求める平等を意味し、欧米ではスタート(チャンス)における平等を意味するものであると確信するに至った。いくつかの著書を読んでいるうちに、この様な考え方をする人が多いという事実に気がついた。たとえば、加藤寛先生、佐藤浩志先生等である。
 かなり以前聞いた話であるが、ニューヨークにおいてはかなりの乞食がいるのだそうだ。日本人が考えているアメリカ人の人権意識や公平の概念ではなぜ、この様に乞食が多いのかと疑問を持つのは当然であろう。これに対しての彼らの答えは次のようであったという。「彼らには働けるように援助している。しかし、彼らは働かないのである」と。
 過日、足利税務署長さんのお話を伺う機会があり、日本の徴税の基本の一つは「公平」であると言う話で、これまた、まさに日本的発想そのものであるという感じを強くした。
 結果の平等を求めるのではなく、ある価値基準に従って、そのシステムを決定すれば良いのである。あのNHKですら、過日の放送で、「税の公平・公正」と公平・公正を並列で並べている。ここでは少なくとも公平と公正はほとんど同意義で用いられていると考えて良かろう。しかし、筆者は公平と公正が少なくとも日本人社会においては、特に平等という言葉が上記のように諸外国とはかなり異なったニュアンスで用いられているとしたならば、ずいぶん違った結果を招くのではないかと思う。ここ数年来、特に問題なっている日米貿易摩擦の問題としても、おそらくアメリカが求めているのは、日米貿易における公平ではなく、公正そのものであろう。
 本来、あるべき姿は公平ではなく、公正であるべきなのだ。
従って、現在の日本の将来を考えた場合、次の点を強調したい。
「日本的平等・公平という言葉の意味をもう一度考え直そう」と。
 もう一つ、蛇足になるとは思うが、追加しておきたい事がある。この雑誌の読者の大部分は既にご承知のこととは思われるが、もしかしたらご存じない方もあるのではないかとの事でここにしたためた次第である。それは、「本音」と「建て前」のことである。日本人は「本音」と「建て前」を上手に使い分ける。これは一面で見れば、日本人同士の人間関係をうまくいかせる為に大いに役立っていると云えよう。しかし、この「本音」と」建て前」という概念が本邦特有なものであるのをご存じない方はおられないであろうか。もし、おられるとしたならば、ここで再認識して頂ければ幸いである。
 これらの二つのことがどうして起こるのか、という問題発生のメカニズムに関しては多少の自説があるが、これに関しては紙面の都合もあるので次回にゆずることにする。
 最後に、筆者が数年前につくった格言をご紹介しておこう。
「税金という言葉が予算という単語に変わった瞬間にムダ遣いが始まる」
このような格言が筆者の杞憂であれば幸いである。


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