U、最近思う事 |
最近、特にここ数年間本当に心が痛む事件が多い。それもその多くが子どもたちが引き起こした事件である事を思うと、長きに渡って小児医学の分野に身を置き、さらに最近では女子大学というところで若い女性たちの教育を担当している自分としては身の毛がよだつ思いがする。神戸の事件を始めとして、黒磯の女教師殺人事件、そして、子ども同士の些細な事から起こったとしか考えられない殺傷事件等、数え上げられないほど多くの事件が新聞をにぎわしている。これらの事件の背景は、多因子の関与が考えられるため、一概には言えないと思われるが、現在の日本における子どもの 問題に関して言えば、少なくとも原因がどうであれ、その犯人探しをしている段階ではもはやなく、これ以上の悪化を防止するには、現実的に、また、具体的にどのような手を打たねばならないかという事であろうと思う。 数年来、私は講義内容として「死を通して生を考える」という講義をしてきた。これらの経験を通じて、かなり多くの学生さん達がこの問題に多大な興味と関心を示してくれる事に気づき、今年度の総合特別講義においてはこのテーマのみで、12回の講義も実施してみた。 そこでは「今なぜこのようなテーマでの講義が必要なのか」という事に始まり、幅広い関連事項に触れてきた。小児科医師としての立場から、脳死や臓器移植について述べるにとどまらず、それに加えてDNAレベルでの死の問題等について論じてきた。 例えば、アポトーシスとかテロミアなど遺伝子レベルでの新たな知見は宗教的関与のほとんどない日本人にとっては死を考える場合の一つの取っ掛かりとして極めて貴重な示唆を与えてくれるものと考えている。 臓器移植について語る場合、考えなくてはならない問題として「人称の問題」がある。例えば、臓器移植を可とするか、非とするかは自分が臓器移植を受ける場合と、親などの肉親の場合と、さらには、赤の他人の場合とでは恐らく答えが変わってくる可能性が高い。私はこれを「人称の違い」として学生達に説明している。 このような事を考えていたとき、以前新聞の投書欄で見た記事を思い出した。それはこのようなものであったと記憶している。投書者は言う。「私は重度の身体障害者である。普段の生活にもいろいろの困難がある。この為には多くの人に助けてもらわねばならない。私がこのようにいろいろの障害を受けてこの世に生まれてきたのは、皆さんの受けるべき障害を自分一人が背負ってこの世に生まれてきたからなのだ。しかし、世間はこの事を分かってくれずに自分は今多くの苦労を強いられて生活している」というような内容であったと思う。私はこの投書を読み、何か割り切れないものを感じた。私自身が重症心身障害児施設で見学者の案内をしていた時に、このように 「この子達がこのような障害を持ってこの世に生まれてきた事で貴方達害を持たない生活を送ることが出来のですよ」などと言った事はある。しかし、このような事を障害者本人の口から言ってしまう事は逆に健常者の反感を買うのではないかと心配せざるを得ない。今日、この問題を上述のように人称別に考える立場で考えてみると、この事がかなり明確に言えるような気がする。すなわち、このような問題はやはり、第一人称の立場ではあまり言わない方が良いのではないかと思う。第二人称ないしは第三人称の立場で言う方が説得力があると考えるのは私一人であろうか。 このような事を考え、かつ講義を進めているうちに、次のような疑問に突き当たった。それは、「人権の問題」である。上述のような残忍な事件に際して語られる事は、被害者の人権と加害者の人権の問題である。神戸の事件でも、雑誌に容疑者が14歳であるということで写真を載せるかどうかという議論が色々の角度からあった。勿論、現在の法的立場で言えば、未成年の容疑者の写真を掲載しない事が常識的であろう。しかし、多くの人々の間で、これで本当に良いのかという疑問が出されたこともまた事実であり、多くの国民の少なくとも気持ちの上では何となく割り切れないものを感じていたのではないだろうか。 この問題に対しての結論はさておき、ここで私が考えた事を以下紹介する。 それは、現在の我々の意識の上での人権を上記にように、「人称別に」考えて見る必要がないだろうかということである。人権を「人称別」に考えると、まず、一人称としての人権、これは当然ながら、自分の権利を守るという事である。さらに、これを二人称という立場で考えると、「貴方の人権をどのように守るか」という問題となる。これは、平たく別な言いかたで言えば、「思いやり」ということではないだろうか。最近の子ども達は権利の主張のみが多く、義務についてはあまり考えていないのではないかとの話を聞くことがよくある。この事は先の一人称での人権と通じるものはないであろうか。自分の人権のみに固執し、他人の人権にはあまり考慮しない考え方が少しはびこり過ぎているのでないかとの考えを持つのは私のみであろうか。 勿論、人称にはさらに単数と複数とがあり、これを考える必要性があるがこの問題に関しては別の日に考えてみたい。 以上いろいろの事を述べたが、結論としていえる事は今後の学校教育において人権を考える場合に、少なくとも自分の人権を守る事を教える事(一人称での人権)以上に他人の人権(二人称・三人称での人権)を大切にするという考え方をもっと強調していくことが必要であると考えるが、どのように皆様はお考えになるか是非ご意見をお聞かせ頂きたい。 |
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