W、命の危機管理 |
小渕前首相の病気・入院に際して、多くの疑問が出されているが、それ以前に、誰一人として、首相が万が一の場合の代理者に関して、問題提起していたことを私は過分にして知らない。この様に、わが国における危機管理の問題は、戦後50年以上、多くの国民にとって、話題にさえならない問題であったといっても言い過ぎではないであろう。例えば、阪神大震災の際にも、わが国における危機管理能力の欠陥が一部の人により叫ばれていたにもかかわらず、その後、遅々として進まないのは、危機管理能力に対しての国民意識がいかに低いかということを端的に物語っている。なぜ、消防訓練をするかといえば、冷静に、しかも、適切に対応しうるような基礎的訓練を普段から積み重ねておくことによって、火災が起こった時に、いかに敏速に対処するかという緊急時の心構えを常に意識しておくことが極めて大切であると言う、いわば、初歩的な問題であろう。 通信過程の夏のスクーリングでの私の講義においては、数年前から「死を通して生を考える」と言うテーマで2回にわたっての講義をして事はご存知の方もおられると思う。これは、最近の子どもたちによって引き起こされる多くの非道な、しかも、我々年代のものにはほとんど理解できない事件を見聞きしていて、「死」の認識がどこかおかしくなっている最近の風潮を感ぜざるを得ないのは私のみであろうか。これらの事件の背景には、子ども達のまわりにあまりにも死を考えさせるチャンスが少なくなり、この結果として、命を尊いものとして尊重する意識が薄くなり、安直に自分の死(自殺)や他人の死(殺人)を選択することが横行しているのではないかと考えたからである。「死」は最も「生きる」意味を考えさす端緒になると思う。このチャンスを最近は少子化・高齢化と言う時代背景が奪っていきつつあると考える事は出来ないであろうか。本来家庭で教えられるべきこの課題が、家庭機能の衰退化で忘れ去りつつあるというふうに考えれば、これを補完する意味でも、学校教育の中で一部行うことが出来ないかと言う発想もあって、私達は数年前、「死を通して生を考える」研究会を発足させたのである。昨年は第一回の報告書も作成した。 火事でさえ、消防訓練と言う手段で、危機管理を行っていると言うのに、最も大切なものの一つである命に関しての危機管理がないのはなぜであろうか? 「Death Education(死を通して生を考える教育)」を行うことにより、より良き自分の生きがいを考えてもらう事が現在の子ども達にとって極めて重要な課題であると考えるのは私一人であろうか? 死をタブー視せず、死を通して生を考える事(=自分の生きがいを考えてもらう事)が極めて大切な世の中になったのである。Death Educationを行う事により、「命の危機管理」が出来るのではないかと考える昨今である |
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