Y、体育科教育巻頭エッセイ

 最近、子ども達が引き起こす多くの残虐非道な事件が新聞を賑わせている。これらの事件の背景は、それぞれの事例により様々であり一概には言えないが、その多くの事例に心の問題が深く内在しているように思えるのは筆者のみであろうか。本雑誌の購読者はおそらく体育関係者が多数を占めると思われるので、身体に関しては精通されているとしても、心の部分はやや苦手とされる方もおられると推察する。いうまでもなく、ひとにとって心身両面のどちらも大切である。しかし、残念ながら現代の社会はストレスに満ち溢れており、子どもといえどもこの影響を無視することは出来ない。逆説的に言えば、心身両面での強化が現代の子どもの課題といえる。しかし、残念ながら、これは坊主の念仏にすぎず、実際には家庭機能の衰退や家族の絆の崩壊等によりむしろ以前にもまして、この両面にわたっての強化が出来にくい時代背景がある。昔から、体を鍛えることにより、心を豊かにするという考え方があるが、この両者は本来相互関係して作用するものと思われる。従って、両面からの働きかけが必要であるが、社会構造の複雑性により、より難しくなっているというのが現状であろう。
 筆者はここ数年、「死を通して生を考える教育」の必要性を提唱している。多くの子ども達が少子・高齢化の影響もあって、「死」から遠ざかっているため、子ども達の前に「死」という題材を提供し、子ども達が自らこれを考えることにより、自分の生きがいを考えてもらおうとの試みである。「死」と「生」は一体のものであり、鏡の裏表の関係にあるから、本来、これを分離して考える事自身に無理があるのである。勿論、題材が題材だけにこの課題に取り組むことは慎重な配慮が必要であることは言うまでもない。さらに、年齢による認識度や個別性はかなり異なるのでこの点での配慮が実際に実施するときには極めて重要である。しかし、筆者が小学校高学年や中学校の生徒さんにおこなったわずかな経験でも、この問題を知りたい、大人と話し合いたいと考えているのではないかと想像される回答は多い。昨年末、教材として筋ジスの患者さんに自らの「死生観」を語っていただいたビデオを自主作成した。この感想文でも、感動的なものが多い。
元来この教育は一般教科と異なり、普通に教えることで成立するのではなく、大人が子どもと一緒に考えるという姿勢で臨むことが不可欠であることも強調しておこう。
勿論、このテーマが本来家庭で行われるべきであるとの意見も多いと思う。筆者自身もその考え方に基本的に賛成である。しかし、残念ながら、最近の家庭機能の崩壊から類推すると、今後この機能を家庭に求めるのは既にかなり難しい段階にまできつつあると言うのが筆者の考え方であり、学校教育がこれを一部代償しなければならない段階まで来ているのではないかと思う。筆者自身の調査では1)2)、小学校高学年でも、死(特に肉体的死)を正しく認識していない子ども達が少なくないことが想像される。これは、一度死んだ人が生きかえることがあると思うかとの問いに対して、なんと、あるとの答えが126例(33.9%)、ないが126例(33.9%)、分からないが117例(31.5%)であった。これが事実としたならば、由々しき事態となりつつあると警告を発する必要があると考えるのである。

文献
1)讀賣新聞 平成14年4月11日論点
2) 2001年度第48回日本小児保健学会報告、「死を通して生を考える教育」の重要性−その1−、−その2−
(詳細は日本女子大の筆者のホームページを参照されたい)

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