]T、日本教育方法学会論文A

       「死」の学習を通して、「生き方」を考える一試み
                             和光小学校   中村源哉
和光小学校の6年生は、沖縄を学び、戦争の時代を学習し、沖縄の『命こそ宝』『命どぅ宝』を知る。命を大切にしなければならない、命こそもっとも大事なものである、ということを繰り返し学んでいく。子どもたちの文章の中でも「・・・命の大切さがわかった。」という言葉がたくさん出てくる。しかし、・・その命というものを子どもたちは、どれだけわかっているのだろうか、言葉では、言い表すことができても、その重みを、できるだけ実感に近いもので理解するために、想像力と感性を豊かに働かせて、命の重み、その深さを真剣に考える、考えられる子どもをいかにして育てていくか、沖縄の学習に10年近くかかわってきた私自身にとってもっとも重要な実践課題であった。1999年私は、6年生を担任し、1年間を通して、そのことを考えつづけた。
 沖縄で聞かされた悲惨な戦争での死。死はだれにでもあるもののそんな死に方はしたくない。子どもたちも異口同音に答える。死ぬのは、こわい、死にたくない、だけれども確実にやってくる。死ぬことなんて考えたくない。小学生のうちからそんなことを考える必要があるのか。自分自身にも大きな迷いがあった。しかし、自ら命を絶つ子どものニュースや、死がいつ訪れるかわからない今の時代、死のこと、いかに死ぬかのことを考えることは、いかに生きるかを真剣に考えることになるのではないかという自分なりの仮説をもった。
1学期、教室では、ホスピスでボランティアをする方との出会いなどがあった。死をむかえることを知った人々がどんな様子でその最後をむかえるのか、そのことにかかわる人に話を聞くことで、より具体的、より身近に死について考えられるのではないかと考えた。その話を聞いた一人の女の子、Yさんは、その少し前まで、不登校の子であった。先の阪神大震災で祖父を亡くし、両親もそのことで、大損害を受け、さらに体を悪くした祖母の面倒を学校に行かなくなった彼女が見るという体験を持つ子であった。その話を聞いた数ヶ月前に祖母をも亡くしていたのである。身近な人の死を体験したYさんがその話をその後どのように受け止めていったのかは知ることができないのだが、彼女の不登校は、その後も一進一退を続けた。でも、やがて彼女は、自分で自分の学びたい授業を選択してやってくるようになり、総合の授業や、中村博志先生の特別授業(「死」の授業)に熱心に耳を傾けた一人であった。その後、中学に進んだ彼女が自分のやりたい学習を自分自身がつかんでいくようになったという話が伝わってきた。中村博志先生の「死」の授業をはじめとして、一連のこの学習が確実に彼女の中で何かを生み出したということは、まちがいないのではないだろうか。もう一人、「死」について、関心を深めた男の子がいる。Sくんである。Sくんは、スポーツが好きで、いつもにこにこしていてとても明るい男の子である。特別身の回りに死を体験するということもない子であったが、中村博志先生の授業へのきっかけをつくったのは彼であった。
2学期になって、社会科で、戦争の時代の学習がはじまると、「かわいそうなぞう」のビデオや「対馬丸」のビデオなどをみていった。ある子がこんな感想文を書いている。「ぼくは、ゲームで戦争をやっていたけど、たかがゲームの中の世界だと思いやってきたが、こわした船も現実だったら、対馬丸みたいになるんだよなと思い、とてもゲームをやりにくくなった。あのとき(壊されるとき)自分が船にのっていたら、どうするんだろうなと思いとってもこわくなった。」現実体験は、もちろんないが、この子のように想像力をうんと働かせてその状況を思い描ける子は、死の恐怖にうんとせまっているのではないだろうか。Sくんは、そのアニメを見て笑っている仲間たちを批判している。「・・・あと、映画を見ているとき笑っている人がいたけどちょっとおかしいと思う。人がどんどん死んでいくのになぜわらっているのか、不思議だった。・・・今ぼくたちは、とてもよいくらしをしているなとあらためておもった。」
こうして子どもたちは沖縄に行き、戦争体験の話を聞いたり、ガマにもぐったり、米軍基地をみたりと3泊4日の学習旅行を体験してくる。その後、さらに「もっとしりたいこと、深めてみたいこと」ということで、子どもたちに投げかけをした。「戦争中の学校のことをもっと知りたい」「基地はどうしたら、なくせるのか」「戦争が終わったときの状況をもっとくわしく知りたい」・・・子どもたちの疑問はさらにむずかしくなり、一つ一つ全部を取り上げていく時間はとてもなかった。・・・そんな中の一つにさきのSくんに「命の大切さをもっとしりたい」という問題意識がうまれていた。命について考えるために「死」について知ろうというのが最後にSくんがたどりついた問題意識だった。「人は、どんな死に方をするのか。」「死とは、そもそもどんな状態になることなのか。」まず「死」というものをしっかり受け止めようというのがSくんだった。そこで、Sくんに自分の質問をまとめさせる一方でそういう疑問にていねいに答えてくれる中村博志先生を同僚の藤田先生を通じて紹介してもらい、さっそく手紙を出すことにした。Sくんは、3つの質問をしている。@死の種類をくわしく教えてください。(病死・事故死など具体的に)A死とはどういう状態か。B絶対に死んでしまう病気のとき、医者は何を基準として患者に告知するのか。・・・その質問に中村博志先生は、専門のお立場からじつにていねいに答えて返事を書いてくれた。教室で子どもたちと必死になってその返事の手紙を読んだ。しかし、なかなかむずかしいので、実際に中村博志先生に教室にきていただいて直接質問の答えを伺うことにした。子どもたちは、実にさまざまな質問を用意した。特に、「臓器移植」の話題がニュースをにぎわせていたこともあって、そこへの質問も多かった。・・・卒業式の直前というぎりぎりで行われた授業でさらにそこから学習をつなげることができなかったので、その後子どもたちがこの授業をどのようにうけとめていったのかは、先に書いたYさんのことを風の便りに聞く程度で、ほとんど知る由もないのだが、私自身は、「死」というものを扱うことをタブー視せずに、正面から受け止め、子どもたちが疑問に思っていることに積極的に答えていくことは、非常に大切なことであると思ったし、また、子どもたちも非常に関心を持っているということが確かめられた。興味本位な形の学習ではなく、専門の立場の方をうんと利用してこれからもこういう学習がどんどん進められていくことが、子どもたちが未来に向けて豊かに生きていくためにもとても大切なことであると思う。
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