]T、日本教育方法学会論文B

              死を通して生を考える教育の重要性
                 〜その2 今後の課題〜
      日本女子大学家政学部児童学科、死を通して生を考える教育研究会会長 
                                              ○中村博志
     和光小学校、同会員 藤田康郎、中村源哉、国士舘大学、同会員 鈴木康明

最近の新聞やテレビには、毎日のように残忍な殺人事件の多発がある。
特に、子ども達が引き起こす事件が非常に多いのに気付くのである。このような事件の背景にはどのような要因が関与しているのであろうか? 
我々はこのような事件の背景に、子ども達の周辺から「死」が遠ざかったことがその一つの大きな要因ではないかと考えている。わが国のDEATH EDUCATIONは、上智大学のデーケン教授により始められたが、我々も1998年から「死を通して生を考える教育研究会」を主宰している。
 最近、DEATH EDUCATIONの必要性が少しずつではあるが理解されてきていることは評価するとしても、まだ多くの問題も抱えている。しかも、多くの親や教員においてはまだ死はタブーとして認識されており、このテーマへの疑問を抱く人も少なくない。
 我々は、共同演者の所属する和光小学校で、極めて貴重な経験をした。この中で、子ども達の殆どが死をタブーとは考えておらず、むしろ、知りたいと考えている感じがあることは前発表者が報告した。ここでは、このテーマの重要性を述べるとともに、今後の問題点に関しての問題提起を試みてみたい。
まず、どのような問題点があるかを列挙してみる。基本的問題点から挙げると、第一番目に、この様な課題はそもそも教えるべき事なのかという課題である。二つ目には、これを学校教育の中で行うべきかという問題である。次に、もし仮に、学校教育において行うとしても、どのような教科で行うか、全ての教員が行うべきであるか、どの様な教員が行うべきであるか、その方法はどのように行うか等がある。さらに、宗教的問題も大きな要因であろうし、肉親の死などに遭遇した子どもがいる場合にどうするかなど具体的に検討すべき問題は少なくない。
これらの一つ一つの項目に対して、まず、私見を述べてみたい。
基本的問題点として、DEATH EDUCATIONは本来教えるべきことであるかどうかに関しては、我々の研究会においても何度か議論をした。おおよその意見はこのテーマは本来教えるべきことではないのではないかというものであった。演者の意見もまったく同感である。このテーマは一般の教科と異なり、単に教科として教える事により理解できない問題であろう。これまでの各々の生活暦の中で経験してきた家族やペットの死などに際しての自らの体験を通して、さらに、その上に、この課題を自分なりに考え、悩んだ上で分かることではないかと演者は考えている。この点に関しても、これまでの学校教育における教科科目と一味異なったものと考えて良いのではないか。次に、この課題を学校教育で行うことが良いのかどうかという問題である。このテーマだけでも多くの意見があるであろう。この様な課題は学校教育という集団の中で行うことが良いかどうかという基本的問題があるからである。演者自身も最初この課題をどう考えるべきかどうか、かなり考えた積りである。演者自身の考え方は最初から、この課題は本来家庭で行うべきであると考えていた。しかし、なぜ、学校教育でこれを行うことをよしとしたかというと、現在の家族の状況を見て、さらには、上述した多くの子ども達の引き起こす事件の多発を見て、家庭のみの教育では、もはや、どうしようもない状況に既に陥りかけているのではないかという想いが強かったことがこの様に考えさせた大きな要因である。従って、本来一義的にその責任がある家庭教育の補完的役割として、学校教育の中で一部その役割を担っていかねばならない時期に来ているのではないかと考えたのである。いわば、学校教育はあくまで、二次的役割としての使命であるというのが演者の基本的考え方である。
 次にどのような教科で行うかという疑問であるが、演者はこの点ではかなり幅広い考え方を持っている。どのような教科で行ってもよいのではないかという立場である。元来このテーマには正解はこれだというようなものではなく、教える側と教わる側がいわば、「共に考える」という立場で関わることが重要であろう。2002年から始められた「総合的学習」などはこの点から考えると、多くの教員が協力して行うということが出来るのであるから、ある意味においては極めて適切な科目と言えると考えている。さらに、今後、このテーマでの学校教育が多くの学校で行われるようになるとしたら、全ての教員が行う事が良いのかという問題である。始め、演者はそのように考えていたが、最近ではむしろ否定的考え方に変わった。このテーマでの教育は、かなり、自分自身との対決を基盤にせざるを得ないため、全ての教員がこの様な考え方に立てるかどうかというと、残念ながら、現時点では「否」と言わざるを得ないのである。であるから、少なくとも現時点では、DEATH EDUCATIONを実行すべきと考えている教員が比較的スムーズに実行できる体制が求められていると言うことが出来よう。すなわち、少なくとも校長や、他の教員や親からの無言の圧力で中止することだけは避けたいのである。実際、現時点でこのような教育に取り組んでいる数少ない教員に聞いてみると、その多くは孤独の立場で行っている人が多く、学校を挙げてこの教育に取り組んでいる教員は極めてまれといわざるを得ない。
 次に方法論であるが、これまで、いくつかのDEATH EDUCATIONの研修会に自ら参加しての感想としては、この方法が良いと言うものはないと思われる。実施される教員自身が、自らの考え方に基づいて、やり方を考えることが重要であると思う。事実、すでにこの課題に取り組まれている教員の中には、その手法においてもかなりの違いがあるのである。その専門性をみても、宗教者であるデーケン教授を始めとして、宗教を通じてこの課題に取り組もうと考えておられる方は少なくない。また、倫理、哲学、道徳などの切り口を考えておられる方もおられるし、性教育の視点や、人権の視点から入ろうと考えている方もおられる。演者は上述のように、この課題への切り口はこれを行う事を意図する方が自分で考えるべきものと考えている。演者自身は宗教的基盤に弱い日本人という事で考えると、宗教や哲学、倫理、道徳などの切り口より、むしろ生物学的視点に立って「死を通して生を考える」事が、日本人に最も適した方法であるのではないかと考えている。勿論、演者の場合は、対象が主として大学生であるからこのような方法が適していると感じるのかもしれない。
 このテーマに取り組む場合に、最も重要なのは対象者の年齢構成であろう。演者自身の経験は、対象の大部分が大学生であるので、幼い子どもにおける経験は少ない。従って、それ以上の事は言えないが、我々の研究会における議論を通してみても、少なくとも、大枠としては、幼稚園生、小学校低学年生、小学校上学年〜中学生、高校生、大学生以上などの段階に分けられると思う。もしかしたら、高校生と大学生以上は一つの枠に括れるかもしれない。年少者を対象とした場合、問題の性質からいってかなり慎重な配慮が必要であることは言うまでもない。従って、このように年少者に対しては、例えば、絵本を通じて行うとか、人形劇を通じて行うなどの特別な配慮が必要であろう。年齢の問題はさておき、筆者はむしろ、その方法論ではなく、重要なのはその目的であると考えている。
 次の課題は、DEATH EDUCATIONを行うことで、子ども達はどの様に変わるかということである。当日資料のT.Tさんのお子さんのような変化を見せる事例は多くはないとしても、著明な変化を示す事例がある事だけは強調しておきたい。この事例は、演者の「死を通して生を考える教育」の講義を聴いた通信教育学科のあるお母さんが、自分の子どもの「死者蘇生」との発言を聞き、危機感を持って子どもにDEATH EDUCATIONを実施した記録である。この手紙により、それまでの仮説が実証された例としてここに提示する。現在の演者の取り組みを力づけた原動力となっている基調な事例といえる。
さらに、これまでの主として大学生の多くの感想文を読んだ経験では、大きく二つの点が挙げられるのではないかと考えている。一つは、「死」を目の前に提示することにより、より自分自身を見直さざるを得なくなるのではないかということである。すなわち、演者にとって「死」とは、いわば、「生」を考えるための「きっかけ」である。死を考えることにより、それがきっかけとして、自分自身の「生きがい」を考える事になるのではないかと言うのが演者の多くの感想文を読んでの仮説である。二つ目は、まわりの人との関係性に気付くということである。感想文の中にも結構多いのがこの点での記載である。中には、親孝行の話にふれる学生も少なくない。以上の二つの点が、DEATH EDUCATIONを行う事により、得られるのではないかと言うのが筆者の現時点における結論である。もとより、子どもの問題行動。すなわち、いじめ、不登校、自殺、学級崩壊などの問題がこれらの教育を実施することにより少なくなっていく事を心から願っている。
また、宗教との関係はわが国におけるDEATH EDUCATION を考える場合に、極めて重要なテーマである事は言うまでもない。なぜなら、上述のように欧米のように特定の宗教を信じている人が多い国とは異なり、本邦においては、いわゆる無信仰な人が圧倒的に多いからである。外国におけるDEATH EDUCATIONが主として宗教の時間に行われるのと違って、我が国におけるこの問題の難しさがあるのである。演者はこの課題を乗り越えるためには、生物学的視点を取り入れることが良いのではないかとの仮説を考えてはいるが、これは、授業を行うおのおのの教育担当者が考えれば良いことであって、こうすべきであるとの立場を演者は取らない。
ここでは、簡単に演者が実行している生物学的視点でのDEATH EDUCATIONについて解説しておく。生物学的視点として、最近の遺伝子解析の進歩により分かってきている「アポトージス」や「テロメア」などの話題等に関しても必ず話すようにしている。「アポトージス」とは、細胞の死には「ネクローシス」と「アポトージス」の2種類があり、このうち「アポトージス」は「programmed cell death(細胞の自殺)」と言われるように、その機構が遺伝子上で既にDNAレベルで組み込まれているという事実である。例えば、お玉じゃくしから蛙に至るまでの経過を考えれば分かるように、お玉じゃくしの尻尾は徐々に消滅していく運命にあるが、これが「アポトージス」と言う機構により実行されるのである。さらに、ひとについて言えば、胎児の手足が出来上がっていく段階で、最初のグローブのような手から、指間の細胞がアポトージスにより消失し、指がそれぞれ5本に分かれていくのである。すなわち、既に、DNAのレベルで、将来、自ら死んでいく細胞が定められているという事実である。また、「テロメア」とは、螺旋状構造で出来ているDNAの両端に存在しており、一種の年齢の回数券とも考えられている部分であるが、組織培養下での細胞増殖において分裂に伴ってその数が減少していく事実がわかっている。すなわち、生物のいのちが既に遺伝子レベルにおいて既にある部分においては決められていると言う衝撃的事実が既に判明しているのである。
最近の我々の調査では、小学校生4年〜6年のアンケート調査において、OHPに示すごとく一度死んだ人が生きかえることがあると思うかとの問いに対して、あるとの答えが126例(33.9%)、ないが126例(33.9%)、分からないが117例(31.5%)であった。なんと、半数以上の小学生高学年において、死の認識が十分でない可能性が強いのである。実はこの調査は、死の認識に関してのみでなく、同時に、死の認識を誤らしている可能性が高い最近のバーチャル・リアリティーとの関係を知るべく調査を行った。残念ながら、この両者の関係は少なくとも本調査においては確認することは出来なかった。しかし、死の認識が時代の変化とともに変わってきている事を示唆しているということが出来よう。
さらに、死んだ人が生き返る事があると信じていた18歳の女子大生の存在も知った。以下この学生の感想文を挙げて見たい。
「実は私も先生の講義を聞くまでは『死』をよく理解していない現代の子供達と同じでした。『一度死んだ動物が生き返ることがあると思いますか?』の問い。私の答えは『そういう場合もある。』でした。先生が『一度死んだものは絶対に生き返らない』とおっしゃったのを聞いて大変驚いたのと同時にきちんと納得しました。以前、『3度生き返った女性』というニュースを見ました。ある女性が医師に死亡診断を受けた後、数時間して生き返ったという話でした。私はそのニュースを見てから動物は生き返ることもあると思うようになり、先生の講義を聞くまでは何の疑いもなくそれを信じていました。しかし先生の講義を聞いてその女性は『生き返った』のではなく『死亡していなかったのだ』と認識しました。先生のお蔭で『死』に関して知識が増えたことに感謝しています。」
この学生と個別に面接をした。彼女と面接しての感想は、普通の女性であったことである。その普通の女性が、何故この様な事になったのか考えてみると、二つのことが考えられる。一つは、テレビなどジャーナリズムの問題である。多くの誤った情報で間違った考え方を強いられた人がいかに多いかを我々は十分に認識している必要性がある。もう一つは、死に対しての多くの大人に存在する意識である。死をタブーとし、多くを語らない風潮は、子ども達にもこのような誤った意識を植え付けているのである。事実、演者の学生の感想文にも小さい時に死に関して家族に話をした時に、家族の反応によりこのような事を話すことはいけないことであると印象付けられた感想文が少なくないことからもこの事は裏付けられるのである。
また、別の感想文で、高校生の妹に同様な質問をしたら、同じ答えが返ってきたとの記載もある。この事は、少なくとも、一度死んだ生物が再び生き返ることがないという基本的事実を理解していない子どもが少なからずいるのではないかと疑惑を待たせるに足る十分な証拠ではないだろうか?
死の認識が以前に比較して大幅に遅れていることが、もし事実であるとするならば、非常に深刻な問題であると同時に、この事実は現代の社会で起こっている多くの残虐な事件の一つの要因として考えることは必ずしも誤った認識であるとは思わない。
また、私自身の経験でも、神経性食欲不振症の学生から、これまでの自分との戦いに関して綿々と想いを述べていただいた経験もある。
この間、この教育の重要性を感じて、研究会を開催し、研究報告書を作成し、子ども達への教材として、進行性筋ジストロフィーの患者さんに、自分の死生観を語って頂いたビデオを自主制作するなどの活動を行ってきた。
このような経験からも、多くの健常な子ども達に死を正しく認識してもらう事により、自分自身の生きがいを考えるきっかけとしてもらえれば幸いである。さらには、不登校を始めとする多くの問題行動を抱える子ども達の治療のきっかけにもなりうるのではないかとの仮説も抱いている。
この様な現状を踏まえつつ、今後どのようにしてこの課題に取り組むべきかを本会員の諸氏とともに考えてみたいとの想いでこの発表を行うことにした。今後、この教育が広く実施されることを願ってやまない。
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